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私は多くの活躍しているアーティストたちとは異なり、かつて有り余る創作意欲が作品の公開と比例していなかった。画家は公募展に出したりギャラリーに所属して発表の場を求める。イラストレーターであれば雑誌など様々な媒体を通して名前を売る。私にとってのアートワークとはひた向きに自己と向き合う作業に他ならなかった。私のクライアントは私であり、オーディエンスもまた私である。他人に見せる事は二の次であったのだ。好きでやっていることは間違いないが、同時に他者と比較しない私自身を完成させる事を目的として創作の使命感に駆られていた。それは明らかに趣味の域を超えた修行のようなものである。そのようなバックグラウンドが、結果的に表のアーティスト活動にも個性として活かされている。

 

私の作品の多くが疑似科学や超自然をモチーフとしている事は必然的にそうなったと言わざるを得ない。自己と向き合う作業は内なる疑問を持つことから始まる。いずれその疑問は私個人から私を取り巻く世界へと広がる。そうして世界中に疑問のヒントが散りばめられていることを知る。ビジネスだけに囚われていては見過ごしてしまう物がそこにはある。人々は自分が、生命が、地球が、そして宇宙がどうして存在しているかという問いに対して明確な答えを持っているだろうか。言い換えれば、あらゆる事象は依然としてミステリーだということを知る。オカルトとは万物を内包しているのである。こんなに可能性に満ち溢れた題材が他にあるだろうか!例えば考古学的な遺物というものは妄想フル駆動装置である。そこにロマンがあれば知的探究心は加速度的に上昇し、常識という偏見に頼らず多角的に考える頭が育つ。結果それは人生を豊かにすると信じている。事実、私のアートワークに広がりをもたせているのはそのようなあくなき探究心からくるイメージの拡張作用である。

 

しかし私の作品の多くはオカルトという言葉が持つ陰気臭さをやたらと感じさせないよう努めている。理由として、その必要が無いからだ。オカルトとは視野を極限まで広げた研究の最先端という見方をすれば必ずしも陰謀論や悪魔崇拝のように怪しいものには限られない。 二つ目に、時として作品からネガティブな感情を作り出す事は、メディアが国民の危機感を煽り、世間の空気を重くするように、集合的無意識への悪影響へ加担してしまうということ。私の影響力の話では無く物事に取り組む姿勢の話である。三つ目に、題材がオカルトであっても、私が人生で培ってきた物、例えばサブカルチャーやデザイン、そしてユーモアのテイストが私の作品にポジティブに反映されるからである。そういう意味で実は小難しい作品背景であっても親しみやすい画面を通して人々との距離がより身近な物となるのである。作品を通して表現されたアイデアが馬鹿げているという指摘は一向に大歓迎である。私は単なる解釈のエンターテインニングとしてアートを作る。山田耕臣は人々の知的好奇心を焚き付けることを目指している。

​山田耕臣

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